安政5年(1858)

○ 安政年間、幕臣 常見 某 イワオノボリをばつ渉せし時、数年を経過せし硫黄製錬の釜を発見す。( 北海立志篇 )
     「安政5年3月12日 常見 栄太郎 堅雪の上を硫黄山に登り硫黄を発見す」  ( 西蝦夷日記 )
      註 この年、硫黄が発見されたのではなく、硫黄採掘の跡を発見したのが真相であると思われる。
      道史は、明らかに「前松前時代岩内場所岩雄登の採掘があったが、後、廃業し安政以後、また、採掘された」と記している。
○ 8月 歌棄詰 公儀役人 長谷川 儀三郎 茅沼炭山を検分す。
    然して、同人は帰り、下役3人残り居り人足をして石炭叺(かます)入800個程 岩内に運搬したり。
    斯の如くなすこと年々続きたり。 ( 北海誌料 )
○ 高崎藩士 市川 十郎 が探検6ヵ年著すところの「蝦夷地実地検考録」に揚げられた当時の岩内。
    運上屋 松前唐津内町 仙北谷 仁左衛門 運上金 515両
    戸 口 居民 300軒 人別 1,800人 泊堀株に100軒あり。市中繁栄旅籠屋渡世7件あり。
    出稼人 2,006人 蝦夷 59人 船 193隻 大寿丸というは五百石積なり
    海 深 7間 沖 7尋 500石船 30余艘繋ぐべし
    産 物 海産物見込鰊 10,000石  安政5年 鰊は4,361石を漁す。
    又、年々凡 12,000石 鱈 500石 鮭 150石 昆布 150石という見込みという説あり。
    近年は、薄漁にて生産殆んど乏しという。
    当年、山猟は熊 3疋、狐 4疋、獺(かわうそ) 4疋を獲たり。