安政2年(1855)

○ 此の年、再び疱瘡(ほうそう)流行す。
    土人、先年(天保2年)の病苦を恐がくし、男女56人、後志山谷に引き上ぐ、既に餓死の場に立至る。
    仁左衛門 びん然の情に耐へず、土人救助に従事し、当霜月より翌年4月迄 米 211俵 此合石87石8斗5合と早割鰊雑漁乾物60背負い番人を以て度々に之を差登せ介抱す。( 佐藤家履歴 )
○ 翌年、箱館奉行の稟請により種痘医師 深瀬 洋春 土人に 種痘す。
○ 漁民 網切騒動 起る。
    江差近傍8カ村の漁民申合せ、建網は鰊繁殖上多大の障害となる事を主唱し乙部村 村山 某 巨魁となり、鰊漁期を好機に建網を切払い、遂に岩内方面より古宇積丹美国古平に進撃し、其の勢、甚だ激烈を極む。